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本福寺(ほんぷくじ)は、滋賀県大津市本堅田町にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は夕陽山(せきようさん)。 == 歴史 == 鎌倉時代後期の正和年間に野洲郡御上神社の神職であった善道が本願寺覚如の門人となり、開創したのが始まりとされている。後を継いだ2世覚念は浄土宗に転じたが、次の3世法住の代に浄土真宗に復帰、最初は佛光寺に属するものの、紆余曲折の末に巧如によって本願寺直末寺として認められた。蓮如が寛正の法難で大谷本願寺を破壊された際にこれを匿った。そのため、延暦寺と対立し、堅田の地元民と延暦寺との対立も絡んで応仁2年(1468年)にはいわゆる「堅田大責」と呼ばれる延暦寺の攻撃で堅田の町と本福寺が焼き払われた。4世明顕と門人明宗は蓮如・実如の元で本願寺と浄土真宗の発展に尽くすと共に、堅田を中心とした近江の浄土真宗門徒及び一向一揆の中核を担う存在となった。 ところが、実如の弟蓮淳(蓮如の6男・証如の外祖父)が近江顕証寺(後の近松別院)に入ると、勢力圏が重なる本福寺の存在に脅威を感じるとともに一門統制に対する力の行使のため、明顕の養子として後を継いで5世となった明宗を圧迫して永正15年(1518年)・大永7年(1527年)・天文元年(1532年)の3度にわたって破門が行われ(堅田本福寺破門事件)、本福寺は所領・門徒らをことごとく奪われて没落、明宗は憂悶のうちに死去する。この明宗が著した「本福寺明宗跡書」、その後継者である6世明誓が著した「本福寺由来記」「本福寺門徒記」は、後世「本福寺跡書(ほんぷくじあとがき)」と称せられた。堅田を中心とした近江浄土真宗興隆の歴史と蓮淳(一門衆)による統制と反対派への弾圧・粛清が生々しく描かれている。江戸時代前期に寺を再興した11世明式は松尾芭蕉の門人・千那(俳号)としても知られていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本福寺 (大津市)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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